サウディアラビア王国 建国の父 アブドルアジーズ国王

サウディアラビア王国は、栄えある高貴なアッラーへの信仰という磐石な基盤の上に建国されました。王国は、聖典クルアーンとスンナ(預言者ムハンマドの言行)に基づいて統治されています。王国は、通常の発展段階を絶した速度で開発と繁栄に向かって突き進み、僅か数十年のうちに今日見られるような、世界の中でも際立った地位を獲得しました。

アブドルアジーズ国王は、アラビア半島の広大な大地に堅牢で強固な国家を建設しました。国土は、アラビア半島の五分の四を占めています。1932年(イスラム暦1351年)に建設された新生国家に「サウディアラビア王国」の名称が冠せられました。これは、分裂していた国土とそこに住んでいた様々な部族のすべてを統一し、広大な領土に安全と公正、安寧と秩序を確立した後、国民の熱望に応えて命名されたものであり、9月23日(天秤座月1日)が建国まもないこの新生国家の建国記念日に定められました。

その日以降、サウディアラビア王国は、この日を建国記念日として祝い、国民は今は亡き偉大な建国の父の栄光の生涯を思い起こすのです。

アブドルアジーズ国王が歩んだ道は、第一次サウディ侯国が歩んだ道、さらには、第二次サウディ侯国が歩んだ道を継承したものでした。

第一次、第二次サウディ侯国は、18世紀中葉にディライーヤの領主でありイマームだったムハンマド・ビン・サウードとイスラムの宣教指導者シェイク・ムハンマド・アブドルワッハーブの二人がイスラム浄化のために共に歩もうと盟約したことに端を発しています。二人は、イスラム布教とイスラム教の教えの浄化につとめ、数世紀にわたった無知と後進性のゆえに人々の迷妄が作り出した偽のイスラムの宗教的慣習とイスラムからの逸脱行為を一掃しようとの原則で一致しました。

二人の盟約の最初の成果は、アッラーの定めた法による統治、諸部族の人々の心の強化、後進諸地域の統一でした。ここに正義と公正を標榜した国家が出現したのです。サウディ侯国は、アラビア半島ばかりか、近隣諸国にまでその領土を広げようとしていました。しかし、このような安定した状況は長くは続かず、外国の干渉と部族間の闘争が起こり、アラビア半島は、侯国成立以前の状況へ戻るほどの激しい騒乱状態に陥ったのでした。

当時、父とともにクウェイトに居を定めていたアブドルアジーズは、故国で繰り広げられている分裂と争乱に心を痛めました。その深い心痛の中から、父、祖父、曽祖父たちが建国した侯国をどのような犠牲が強いられようともかつての姿に戻さなければならないという決意が生まれたのです。

1902年1月15日(イスラム暦1319年シャッワール月5日)、アブドルアジーズはリヤードを開城し、その奪還に成功しました。

これを契機に、分裂していた地域を次々と統合していったアブドルアジーズは、アッラーの御助力と許しにより、ついにサウディアラビア王国建国を達成したのです。それは、31年間にわたるジハード(聖戦)の末にようやく成就したものであり、彼は、この長い期間、連戦連勝を続けながら戦いから戦いへと明け暮れていたのでした。

アブドルアジーズが選択した半島統一の手法の妥当性に納得し、彼の気高い志操に覚醒された人々は、叡智ある彼の指揮の下に集いました。彼は戦いを指導しながら着実に勝利を収め、長年にわたって切望したアラビア半島の統一、安全と安定、部族間の敵対心の一掃、相互の信頼を実現させたのでした。称うべき高貴なるアッラーへの強い信仰と強固な意志、そして民の利益を願う強い意志が彼をひたすら前に駆り立て、それゆえにこそ、いかなる困難も、ついには克服することができたのです。「アッラーの他に神はなし、ムハンマドはアッラーの使徒なり」の一文が刻まれた旗の下に若い王国の礎(いしずえ)が築かれました。国王は、近代国家をモデルに国家機関の設置と整備を開始しました。国王は、国民に輝かしい未来の扉を開いたのです。

国王は、遊牧民を安住させるため、集落建設プロジェクトを実行し、彼らを入植させました。アラビア語で「ハジュル」と命名された、これらの村落は、宗教学者、専門家、学校教師たちを引きつけました。国王は国民のエネルギーを実りある生産活動へと方向づけ、王国のすべての民の願望と利益を一つにしたのでした。

アブドルアジーズ国王が王国のために達成しようとした様々な目標の筆頭に挙げられるのは、アッラーの家への巡礼者たちとアッラーの使徒のモスクへの訪問者たちが通る巡礼街道の安全の確保でした。当時、巡礼街道には追剥ぎが出没し、旅行者の生命が危険に晒されていたのです。

国王は、追剥ぎ強盗を一掃しました。こうして不安や危険から解放された巡礼者たちは、心置きなく巡礼の儀式を執り行うことができるようになりました。

アブドルアジーズ国王はまた、聖地に特別の関心を払いました。国王の統治時代に聖モスクの改修と敷地の拡張工事が施工され、預言者モスクの拡張工事もおこなわれました。こうした工事は、モスクを訪れる人たちがしだいに多くなった新たな状況に対応するためのものでした。

アブドルアジーズ国王は、イスラム教徒の団結のために、イスラムの連帯と協調を唱導した最初の人でした。そうした連帯によってこそ、イスラム教徒として、最良の人間として団結できると信じていたからです。国王は、1926年(イスラム暦1346年)、この目的達成のため聖地マッカにおいて第一回イスラム会議を開催しました。

1938年、王国の東部で石油が発見されました。これは、建国まもない国家にとってまたとない朗報でした。アブドルアジーズ国王は、国家の繁栄を実現するため、その当時はさほど多くなかった石油収入を国の開発と建設をさらに進めるために割り当てました。

こうした努力によって実現されたプロジェクトの中で、良く知られたものには下記のものがあります。

1951年(イスラム暦1371年)、首都リヤードと東部地区間の鉄道の開通。
1945年、王国の航空会社設立。
放送局やその他の公的機関の設立と王国各地における多岐にわたるプロジェクトの実施。
アブドルアジーズ国王はまた、王国各地の教育の普及にも多大な配慮を払いました。学生には奨学金を給付し、有意義な本を印刷して無料配布しました。国王は、1926年、普通教育局の設置を命令しました。普通教育局は各地に学校を開設し、教員と学校設備を充実させる役割を担っていました。同年、サウディ専門学校が設立され、この学校からは政府と民間機関において責任ある職責を担った数多くの人材が輩出しました。また、国外の大学に留学するサウディアラビアの青年たちが留学生資格を取得するための留学生予備校が設立されました。

1950年代初期、聖地マッカに国内初の専門校2校、イスラム法学専門校と教育専門校が裁判官と教員の養成を目的として設立されました。

国は、最高水準の教育を受けた優秀な人材を必要としていたため、アラブ諸国や欧米諸国の大学と大学院へ留学するサウディアラビア青年が数次にわたり派遣されました。

教育の普及努力に加え、アブドルアジーズ国王は、道路の建設、病院の設立、最新のテクノロジー導入のために、王国にとって死活的な意味を持っていた政治行政を組織化する法令を発布することにより、その当時の国家収入の許す範囲内において開発プロジェクトを実施しました。

アブドルアジーズ国王が国家にもたらした繁栄により、王国の地位は強化され、対外的には、アラブ諸国間においても、イスラム諸国間においても、さらには国際社会においても、王国の役割は増大しました。

国王は、外国と条約を締結し、国交を樹立しました。王国は、1945年、サンフランシスコにおける国連憲章に先頭をきって署名した国の一つでもあります。王国は、国際理解と協力を強化し、世界の安全保障と平和を強固にしたいと願っていました。アブドルアジーズ国王は、アラブ・イスラム諸国の苦悩を背負い、アラブ・イスラム諸国の公正な大義を守るために努力しました。

サウディアラビア王国は、1944年、アラブ連盟の結成に当初から参加しました。アブドルアジーズ国王は、アラブ諸国の側に立ち、植民地と外国の影響力を一掃して国土を解放するために闘いました。国王は、パレスチナ問題を重視し、1945年、ルーズベルト米国大統領と歴史的な会見をおこないました。パレスチナ問題についてルーズベルトと交わした書簡は、アブドルアジーズ国王がパレスチナ人民の合法的権利を守り、略奪された領土を奪還するためにどれほど奮闘したかを明らかに示しています。国王は、常に、世界の平和のために正義と公正の実現を唱道しました。

アラブと外国の歴史家や著述家たちは、アブドルアジーズ国王を偉大な指導者として描いています。国王の類い稀な傑出した個性、英雄としての資質、数多くの天賦の才について語る、数多くの著書が出版されました。

国王は、偉大な指導者であり、戦場においては常に先陣を切る騎士でした。また、数多くの天賦の才に恵まれた、信仰篤い、優しさにあふれた、傑出した政治家でもありました。

アブドルアジーズ国王は、1953年11月9日(イスラム暦1373年ラビーウル・アッワル月2日)に、主のお側に移られました。国王の逝去にサウディ国民ばかりでなく、アラブ、イスラム世界、国際社会のすべての人々が慟哭し、悲しみました。

サウディアラビア王国の国民は、今日、今は亡き国王の誇りと壮大さに彩られた偉大なジハード、勝利と業績の香りがただようその生涯を賛美するとともに、国王が植えた木の果実を食べ、国王が建設した国家の影で憩いを取っています。国民は、国王を誇りにし、親しみをもって国王を思い出しています。アブドルアジーズ国王の偉業を継承した子息達は、父が切り拓いた道をさらに前に進み、父が達成したいと望んでいた国家の発展、進歩、福祉、繁栄を実現したのです。